児島観光ガイド協会 研修会開催

児島観光ガイド協会
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「味野の塩田干拓と都市形成」から学ぶ児島の原点

児島観光ガイド協会は、会員向け研修会を開催しました。
今回のテーマは

「味野の塩田干拓と都市形成」

講師は
倉敷建築工房 山口晋作設計室 山口晋作先生

参加人数は約20名と多くのガイドが研修を受講しました。
観光ガイドとしての理解をさらに深める、非常に密度の高い研修となりました。


なぜ今、塩田を学ぶのか?

観光ガイドを実施するうえで、児島と塩田は切っても切れない関係にあります。

・なぜ味野が中心地になったのか
・なぜ野崎家が有名なのか
・なぜ児島は発展したのか

その答えは、塩田の歴史と都市形成の理解にあります。

今回の研修は、単なる歴史学習ではなく、
**「今後のガイドの質を高めるための学び」**を目的として開催されました。


児島の塩田は野崎武左衛門から始まったわけではない

一般的には、児島の塩田といえば
野崎武左衛門の名前が真っ先に挙がります。

野崎武左衛門

しかし今回の講義で明らかになったのは、

実はそれ以前から塩田は存在していた

という事実です。


1610年にはすでに「古塩田」があった

徳川家康の命を受けた池田藩の検地(1610年)で、
味野にはすでに「古塩田」の存在が記録されています。

つまり、

野崎塩田(1829年)より200年以上前から塩づくりは行われていた

ということになります。

現在の味野公園付近から神社下のため池周辺が
その跡地と推定されています。

しかも当時から、

・ため池で真水を制御
・土手(現在の砂走り)で排水管理

という高度な土木技術が使われていました。


野崎武左衛門は「政治家」ではなく「実業家」

ここも大きな学びでした。

野崎武左衛門は庄屋ではありません。

政治の中心は、200年以上にわたり庄屋を務めた
荻野家でした。

野崎家は新興の商人。
足袋販売から塩ビジネスへ転換し、
藩に願い出て干拓を実施した起業家でした。

つまり児島の発展は、

・政治を担った庄屋
・経済を動かした商人

両者の存在によって成り立っていたのです。


野崎家の塩田の時代は「わずか140年」

地元では「昔から塩田があった」という印象があります。

しかし実際は、

1829年〜1969年
約140年間

のみ。

歴史的に見ると非常に短い期間です。

この140年間の爆発的なエネルギーが、
現在の児島の景観とアイデンティティを形作りました。


技術革新が児島を変えた

塩づくりの技術も時代とともに変化しました。

時代製塩方式特徴
室町〜昭和初期入浜式潮の干満を利用
昭和30年頃流化式・枝垂架効率化
昭和44年工場生産へ移行塩田廃止

昭和29年の大型台風をきっかけに技術転換が進み、
1969年、塩田は全面廃止となりました。


味野が中心地になった本当の理由

最大のポイントは

「水」

でした。

味野は昭和8年に上水道を整備。

他地区より約20年早いインフラ整備が、

・工場の立地
・商店の集中
・人口増加

を引き起こしました。

都市形成は偶然ではなく、
インフラ戦略の結果だったのです。


児島は「海を陸に変えてきた町」

講義の最後に印象的だった言葉。

児島の歴史は

海を陸に変えてきた挑戦の歴史

縄文時代から人が住み、
平安・戦国を経て、
干拓によって現在の平野を作り上げました。

私たちが立っているこの地面の下には、
幾重もの時代が積み重なっています。


ガイドとして何を伝えるか

今回の研修で得た最大の学びは、

単なる「人物伝」ではなく
構造で歴史を見ることの重要性

でした。

・なぜ塩田が必要だったのか
・なぜ味野が発展したのか
・なぜ児島は今の形になったのか

背景を理解してこそ、
観光ガイドとして深みのある説明ができます。


まとめ|歴史の再解釈が未来をつくる

人口減少社会の今、
かつての「拡大の時代」とは異なる視点が求められています。

干拓によって拡大してきた町が、
これからどう持続していくのか。

今回の研修は、
過去を学びながら未来を考える貴重な機会となりました。

児島観光ガイド協会は、
これからも学びを深め、
地域の歴史と魅力を正しく、わかりやすく伝えていきます。

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